
河合隼雄さんは、ちょっと変わったところがあったようです。いや、今の時代には普通なのですが、当時の空気の中では、ちょっと違う面があった。
前回も書きましたが、子どもは外で駆け回るものだとされた当時にあって、家で本を読むのが好きだったようです。
また、フランスの小説である「モンテ・クリスト伯」やイギリスの映画である「ロビン・フット」が好きだったため、戦時中、こんな素晴らしい作品をつくる国の人たちは本当に鬼のようなのかと、不思議に思っていたそうです。
中学時代得意だったのは、国語と数学。国語は家で、文法博士と言われたくらい。数学は、試験勉強をしたことがないくらい、できた。
隼雄少年の指導者訳は、おおむね兄たちが担っていたらしい。文学も音楽も、多分に影響を受けています。外に出た兄たちが、いろんなものを持って帰って、紹介してくれるのです。また、家にいる兄は、話し相手になってくれた。
家にはオルガンがあって、それを母が弾き、みんなで歌ったりもしたのだという。河合家は男兄弟ばかりだったので、近所の女の子を呼んで、歌ったりもしたとのこと。
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本の中で河合隼雄さんは、「音楽の関係でいうと、ぼくの青春時代は中学校二年ぐらいで終わっているのです」と書いている(P56)。戦争の影が、迫っていたんですね。
次兄の公(ただし)は当初、陸士を目指していたとのこと。けれど、試験に落ちて、臨時医専に行くことになった。それで卒業後、軍医になるのですが、そこでやっと軍隊というものの実態を知った。
その次兄が出征することになるんですが、死んでしまうかもしれないと悲しくて、隼雄少年は陰に隠れて泣いた。そして、次兄に言われたそうです。「戦のようなばかなことはおれたちがやるから、おまえは絶対に軍人になるな」と。
中学2年生になって予科練とかも始まるのですが、隼雄少年は死ぬのが怖くて仕方なかった。国の空気はお国のために死ぬのが当たり前といった時代ですから、非常に悩みます。悩みに悩んで、新潟医大に行っていた長兄に、手紙を出した。
正直、自分は死ぬのが怖い。愛国心はあると思うけど、自分だけが怖がっているのだと思うと残念で仕方がない。死について分かったら、どんなにいいだろう。医学を学んでそれが分かるなら、自分も医学を学びたい。そんなことを書いた手紙を送ります。
すると返事が来て、こんなことが書いてあったといいます。死ぬのが怖いのは当たり前で、恥ずかしいことではないということ。国に尽くす形は、ひとつではないこと。医学をやっても、死というものは分からないこと。
人間がどうやって死ぬのかは、医学で分かる。でも、死そのものについてや自分の死については分からない。それを知ってショックを受けた、隼雄少年でした。
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中学4年生の時、事件が起こりました。当時としては喜ばしくもあり、それと同時に、隼雄少年にとってはすごく困った問題です。何と、隼雄少年が、陸士の推薦に選ばれたのでした。
当時としては名誉なことだったし、父親も喜んでいる。でも、本人は絶対に行きたくない。困りに困った隼雄少年は、父親に手紙を書くことにしました。その時に役立ったのが、兄たちの言葉だといいます。
「戦のようなばかなことはおれたちがやるから、おまえは絶対に軍人になるな」「国に尽くす形は、ひとつではない(軍人になることだけが、国に尽くす道ではない)」
兄の言葉を引用して、隼雄少年は手紙を書いた。それを父親の枕元に置いておいたのですが、翌日学校から帰ると、あれ(推薦)は断ったとそれだけ言われます。
心配して心配して、悩みに悩んだ隼雄少年ですが、決心して親に手紙を書いて胸の内を打ち明け、そして両親も決断してくれたようですね。
ただ、この話には続きがあって、隼雄少年は成績がよかったにもかかわらず、姫路高校を書類選考で落とされてしまいます。これはおかしいということで、父親がわざわざ汽車に乗って説明を聞きに行ったのですが、そこで分かったのが、教練が丙だったという事実だった。
陸士の推薦を断ったため、教練の教官が、甲乙丙の丙をつけたらしい。それで本来通るはずのところを、一次選考で落とされてしまった。
このため隼雄少年は姫路工高ではなく、神戸工業専門学校(神戸高専)に入学することになります。
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