2012年06月28日

「Q27 いじめにあった時の対応/こころの子育て」


「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<新芽のころ――小学校時代>


Q27 子どもがいじめにあったときの対応を教えてください。

  → 冷静な判断と、絶対退かない毅然とした強さが必要です。



いじめを考える時、父性原理がすごく重要になる。

それは冷静に判断し、毅然として行動すること。

命が脅かされる場合もあるのだから、絶対守ると意志を強く持つ。


怒りに任せて怒鳴り込むのもダメ、相手を怒らせないようにとあいまいな物言いをするのもダメ。

絶対に退かないという強さで、物を言わねばならない。

またそれと同時に、話したことでどういう反応が生まれるかも考える必要がある。


時には、いじめられたと聞いて、その怒りを子どもにぶつけてしまう人がいる。

いじめられた上に親にまで責められたら、こんなにつらいことはない。

せっかく打ち明けてくれたのだから、よく話を聞くべき。


話半分で「分かった」と話をさえぎってしまうのも、よくない。

状況がよく分からないままに行動すると、かえってもめることになりがち。

じっくり聞いて、まずは全体像を把握する。


特に問題がないのに、その時の流れで標的にされることもある。

生き方が集団と合わないとか、そこにある文化との戦いになる場合も。

時には、子どもが加害者になることだってある。

その時もカッとならずに、よく話を聞くこと。

決めつけてしまわないこと。


いじめる側も、いじめられる側も、そこから脱け出す時は「こころのつながり」が必要だと、河合隼雄さんは言う。

それが命綱になるわけだから、普段からどんな風につながっているかと、考えていることが大事。





イジメって理由があいまいだったりするから、ダメなものはダメという父性の体現は必要かも。

理由はあってないようなもの、だから、しちゃダメなものはダメだとハッキリと示す。

ただ、大人が先走ると話がややこしくなるので、子どもに対してにしろ、先生に対してにしろ、まずは話をよく聞かないと分からない。

話を聞くにはエネルギーがいるけれど、大事な時にセーブしても仕方ない。

また、目につくものに当り散らすなど、エネルギーの無駄使いをするのも、もったいない。

毅然とした態度をとるには、そこに意志の力が必要。

知識でも感情でもない、しっかりした意志の力。


まずはしっかりと話を聞き、大人が先走らないこと。

全体を把握したうえで、毅然とした態度を。





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posted by 南方城太郎 at 13:15 | TrackBack(0) | こころの子育て

2012年06月25日

「Q26 子どもが学校に行きません/こころの子育て」


「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<新芽のころ――小学校時代>


Q26 子どもが学校に行きません。どうしたものでしょうか。

  → せっかく行かないのだから「チャンス」と思ってください。



学校に行かなくなると慌ててしまうけれど、きちんと対応すれば、時間がかかっても卒業する。

ただ、しばらく様子を見てそれでも行かないようなら、専門家に相談した方がいい。


大事なのは、親がどのくらい本気で考えるか、どれだけ子どものためにエネルギーを使っているか。同じ「学校には行かなくていい」という言葉でも、あっさり開き直って言うのと、悩んだ末に判断するのとでは、違ってくる。

社会や制度のせいにする場合でも、いろいろ見聞きし真剣に悩んで判断したのと、ちらっと聞いただけとか○○さんがテレビで言ってたというのでは、全然違う。

子どもが学校に行けなくなるほど悩んでいるのに、親の方がエネルギーを使ってなかったなら、子はゲンナリしてしまう。


朝起きられない子の場合、低血圧であることも。そんな時は頭ごなしに叱らないで、きちんと診察してもらって、アドバイスを受ければいい。

生き方がいろいろあるように、接し方もいろいろある。対処の仕方次第で、生活しやすくなるかもしれない。体質などの問題を、精神論で語らないこと。


学校へは行っていても、勉強に身が入らなくなることもある。

それは、勉強の面白さというものを教えてもらっておらず、本当の意味での好奇心が育ってないから。

特に、成績でしか評価してもらっていないと、何もかもが面白くなくなってくる。


あまりに子どもに期待を押しつけ過ぎると、どこかでツケを払わねばならなくなる場合も。

人間はずっと成功するわけにはいかず、どこかで挫折を経験するもの。

そして挫折した時は、子のみならず、親にとっても正念場に。


「これが好き」というのがない子ほど、つまづきやすい。

だから子どもの好きなものを取り上げると、あとでまた、ツケを払うことになったりする。

過剰に管理せず、「何が好きなんだろう?」「どういう人生を歩もうとしているんだろう?」と、子どもの側から見て考えるのはすごく大事。





学校に行かないのか、学校に行けないのか。

行きたくても行けないから、すごくつらいと。

そんなつらい時に、あっさりやられると、余計にゲンナリしてしまう。

特に、何らかの見直しが迫られている時、それを無視して他のもののせいだとして騒ぐと、絶望的な気分になることも。


学校に行く行かないは表面的なものなので、そこにばかり注目すると、余計に見えない。

その奥にあるものが何なのか出てくるまで、性根を入れて待つしかない。

そんな時に大人が逃げてばかりいると、子どもはもうたまらなくなる。


何らかの見直しの時が来ているのだとしたら、そこにエネルギーをつぎ込むつもりで。





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posted by 南方城太郎 at 19:17 | TrackBack(0) | こころの子育て

2012年06月21日

「Q25 父親としての接し方/こころの子育て」


「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<新芽のころ――小学校時代>


Q25 父親として子どもにどう接したらいいのかわかりません。

  → 普段は「まるごとの自分」、怒るときは「雷のち晴れ」です。



子どもと遊ぶ場合でも、お父さん自身が本当に楽しんでいるか? それが大事。

また、子どもは、それを見抜く。

サービスで無理やりやられたら、たまったもんじゃない。

大事なのは家庭サービスなどは考えずに、まるごとの自分を見せること。

また、そういう人は自分に自信があるから、子どもがちょっと失敗したぐらいでは怒らない。

あまりに自分を見せてないと、思春期などに、子どもの方から厳しく突きつけられたりする。


子どもの意志も尊重しなければと言うけれど、本当の民主主義では、子どもの意志も、親の意志も、みんな尊重されねばならない。

家族全員が、ちゃんと自分の考えを言うのが大事。

そうすることでやがて、ひとつの現象が家族全体の問題となってくる。


怒るにしても、まるごとでいかないと肝が据わらない。

中途半端になって、始終ブツブツ言うことになる。

落ちない雷みたいなもので、メソメソ雨が降ったりする。

そうではなくて、落ちる時はちゃんと落ちる、それでいてあとは晴れるといった、雷のち晴れが大事。


雷を落としたり、まるごとの自分を見せるのは難しいけど、失敗しながらでもやっていけばいい。





どこかで体裁は通用しなくなるので、本物の自分を見せるしかなくなると。

自分を見せるしかなくなって、それでこそ、本当の自分が形作られる。

そしてやがて、家族全体が、それぞれの自分について考えるようになるようです。


言いたいことを言わないことで、場は確かに保たれる。

でもそれは一時的なものなので、どこかで勝負しなければならなくなる。

それをきっかけとして、親であれ子であれ、自分の生き方というものと向き合うようです。




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posted by 南方城太郎 at 10:07 | TrackBack(0) | こころの子育て

2012年06月18日

「Q24 個室を与える年齢/こころの子育て」


「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<新芽のころ――小学校時代>


Q24 個室を与えるのによい時期というのがあるでしょうか。

  → 「わが家の憲法」で「個室は何歳から」と決めるんです。



自分を律することができる――自律できる――前に個室を与えると、失敗しやすい。

一緒にいるという経験が大事なうちは、一緒にいた方がよい。

そしてやがて、各々の家の方針で、やり方を決めて行けばいい。

それで子どもにも自覚が生まれ、節目ができる。


個室というのは西洋文化だけれど、向こうでは細かなルールが各家庭で設定されている。

個室は与えられても鍵は渡さない時期があったり、できるだけ鍵は使わないようにと言い渡される場合も。

そういう「わが家の憲法」みたいなものがあるけど、日本にはそれがない。


昔は物がなかったから、その分、人間的なエネルギーが投入された。

その辺は、アストリッド・リンドグレーンの「やかまし村の子どもたち」にも描かれている。(家族で作った部屋を娘にプレゼントするシーン)

その他にも、社会の中で、いろいろと節目を感じることができた。

今は社会的な節目がないから、親子や家庭で、節目をつけねばならなくなっている。


今回の「わが家の憲法」は、その節目作りの話。

誰もしてくれないわけだから、自分たちでするしかない。

河合隼雄さんはそれを、「革命」と称している。





節目節目、人生の区切りがずいぶんぼんやりしてきたから、大人になるとか、成長するという実感がないのかな。

昔はそれが外にあって、その枠の中に生きる人間は、自然と――あるいは強制的に――節目を感じることができた。

今はそのような制度が壊されて煩わしさが減ったものの、その代償もあったと。


これまで日本人は、規則などの基準を外に求めてきた。

でもこれからは、内でそれを築かねばならない。

そこに父性も、関わって来そうですね。




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posted by 南方城太郎 at 15:32 | TrackBack(0) | こころの子育て

2012年06月14日

「Q23 子どもと動物/こころの子育て」


「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<新芽のころ――小学校時代>


Q23 子どもが動物を飼いたがるのは、どうしてでしょう。

  → 動物は親なんかより自由な生き方をしているからです。



動物は大人なんかより好き勝手に生きているから、子どもはすごく共感する。

そんな動物を中心にして、家族がやわらかくなることも。

学校では話せなくなるという場面緘黙(ばめんかんもく)の子が、行方不明になったカメを探して声を出し、それで話せるようになった事例もある。

飼っている動物と話をするため、積極的に学校に登校するなんて話も。


そんな自然な動物に対し、人間――特に大人――は、自然や動物的な感覚を失っている面が。

親子関係などで「よい像」は設定するものの、肝心なところで抜けていたり、無駄な努力をしているところも。

動物で言えば、人間がヘンな干渉をしない限り、ノイローゼにはならない。自然に、問題なく生きる。


現代人は決め事を作りすぎて、自然を失っている面が。

そのおかげで保護され助かっている子がいる反面、必要のない子にまでそれが適用され、何かが阻害されるなんてことも。

科学や文明によって非常に助かっている部分と、それによって失っている部分、両方がある。





文明を否定することはないけれど、同時に、完璧でもないと。

功罪、両方ある。

つまり、場合場合であって、それはすごく有効に働く場面もあれば、そんなに有効でないケースもあり、時には、大事なことを失わせてしまう場合も。

盲信するでもなく、頭ごなしに否定するでもなく、うまく付き合うことが望まれる。


何かと考え過ぎてしまう人間だから、時には考えるより何より「生きる」ということを体現している、そんな動物に触れるのは、意味深いようですね。




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posted by 南方城太郎 at 09:58 | TrackBack(0) | こころの子育て