2012年07月30日

「Q35 キレそうと言われる/こころの子育て」


「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<若葉のころ――思春期>


Q35 「キレそう」「カンケーねえよ」と言われてしまいます。

  → ただ怒鳴りあうのではない、「本当の対決」が必要です。



「キレる」時というのは、関係まで切れてしまっている。

感情に圧倒され、相手との関係がなくなってしまう。

なので、口で何を言うにしても、関係が切れないことが大切になる。


一番大事なポイントは、親や先生など、大人が腹を決めること。

怒鳴るのが絶対に悪いというわけでもない。

それでつながりが戻ることだってある。

けれど、それにしても「絶対に言ってはならない言葉」もあるので、そこは踏みとどまらないと。

それを言わない努力をするのが「愛情」だと、河合隼雄先生は言う。


もめごとはイヤだけど、親子であれ夫婦であれ、対決の火花が散らないと状況が変わらないことが多い。

それは一方的にどちらかが言うだけではなく、言うと共に相手の言うことを聞かねばならない。

ということは、そこには自分との対決も含まれることになる。


日本には伝統的に、対決しない文化がある。

対決になる前に、「まあまあ」とおさめてしまう。

それはそれで悪いものではないけれど、それだけでは もたないのも事実。

これからはそろそろ、対決という課題にも取り組まないといけない。


また、そこには、「言わなくても分かるべきだ」という気持ちがあったりする。

直接言うのは憚(はばか)られる文化と、言わなくても察するべきだという考え。

この両輪で、対決になりにくい。

なので河合隼雄先生は、「第三者を間にいれて話す」のもひとつの手だとおっしゃっている。





日本の文化として、争うことを嫌うとか、本音を隠すとか、そういうのはありますよね。

それは悪いことばかりではないし、助かっているところも大きいけど、「それだけ」とか「そればかり」では危ない。

どこかで犠牲が出てたり、どこかで何かを失くしていたり、もうそろそろ変わらないといけないのかもしれません。

状況が変わっているのに同じことをしていると、おかしくなってきたりするし。


大事なのは「うまく変わる」とか「うまくおさまる」ということなので、対決を避けるあまり、うまく変われないとか、うまくおさまらないとか、そういうのはどうもねえ。

避けられない対決もあるわけだし。それをしないと、それこそ関係が切れかねない。





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posted by 南方城太郎 at 14:24 | TrackBack(0) | こころの子育て

2012年07月23日

「Q34 子どもが悩んでいる時/こころの子育て」


「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<若葉のころ――思春期>


Q34 子どもが悩んでいるとき、どうしてやったらいいですか。

  → 「さなぎ」の時期は、そっとしておくのも大事です。



誰もが自分の世界、テリトリーを持っていて、そこに入り込まれるのを嫌うもの。

特に、悩んでいる時なんかは、なおさら。

ところが親は、ついつい踏み込んでしまいがち。

かまいたくなったり、何か言いたくなってしまう。

さらに、うまく言えない時などは、ついつい言わなくてもいいことまで言ってしまいがち。


泣いている相手に「泣くな」と言ってもしょうがないし、何か声をかけてどうにかなるとも思えない。

何も言わず、そっとしておくのがいい時もある。

(「いい時もある」というのは、「絶対にそれがいい」ということではありませんが)

生きている以上、傷つくことは避けられず、また、人間は傷の経験によって成長するともいえる。

それを安全に安全にとやりすぎると、人生のどこかでつまづいた時に対処できない。

なぜかといえば、それまでに傷ついたり、失敗したり、つまずくといった、練習がないから。


親に対する子の気持ちは複雑なところがあって、「分かって欲しい」という部分と「分かってくれるな」という部分、両方がある。

特に悩みに関することは、後者になるかもしれない。

また、悩みというのは、親であれ誰であれ、おいそれとは話せないもの。



親は「うちの子はこんなものだ」と決めつけてしまいがちなところがある。

それによって、子どもの可能性をふさいでしまう。

枠の中に入れることで安心したいという気持ちが、可能性を邪魔してしまいます。


思春期は、大人になる前の大事でたいへんな時期。

前の自分が一度解体されて、「さなぎ」になる。

そんな時はそっとしておいて、これから先どうなるか思いを馳せて待てばいい。





何か言いたくなるのは、自分の気持ち。何かしてあげたくなるのも、自分の気持ち。

泣いている子や悩んでいる子に、自分の気持ちを押しつけてもしょうがないと。

むしろ、相手の気持ちが涙として出てきたり、モヤモヤしながらもどこかに向かっていくのを待つ方が大事だと。


安心したいというのも、親の気持ち。

それはそれで間違っていないけど、それで可能性まで摘んでしまったら悲しい。

また、危機を取り除きすぎて、危機に対応する力が十分に育たないのも危ない。

無理やり危険に放り込むことはないけれど、自然な程度は残しておかないと、人間力が育たないことも。


自分の気持ちと、相手の気持ち。

親の気持ちと、子どもの気持ち。

当たり前に、両方ある。




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posted by 南方城太郎 at 14:27 | TrackBack(0) | こころの子育て

2012年07月19日

「Q33 子が親と反対のことをするわけ/こころの子育て」


「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<若葉のころ――思春期>


Q33 子どもが親と反対のことをするのはなぜですか。

  → 親の盲点だからです。反抗なしの成長はありません。



子どもはどこか親の盲点になっているところに問題点を探し出してくると、河合隼雄さんは言います。

盲点とは、うっかり気づかずに見落としている事柄。

何かに集中している人、何かに一生懸命な人ほど、盲点はできるものです。

そして子どもは、親のそんな点が関わるところで、問題を起こしてくると。


盲点というくらいだから、親はそれに気づかない。

そもそも見てないわけだから、悪いと思ってないし、問題だとも思ってない。

そんな部分を、子どもはわざわざ探し出す。

ただし、無意識的に、あるいは結果的に、そうなるのですが。

子どもも分かってやっているのではありません。


完全な状態、すべてが足りている状態を、球としましょうか。

でも、人の生き方とか性格というのは、だいたいその片方にしか関わっていません。

マジメな人は、面白味がない。

地道な人は、近道を探そうとしない。

いい加減な人は、堅実さが足りない。

このように、どちらか片方な状態。

そして子どもは、逆の性質の意味に気づいたり、そこにある意外とよい点、今ある性質の問題に気づいたりするという。

身近で、しかも本人じゃないから、ある程度、客観視できるというわけです。


が、しかし、物事はそう簡単じゃない。

河合隼雄さんが言うには、「子どもはだいたい親と同じことをするか、正反対のことをするかで、親よりちょっとだけ変わるというのは、ものすごい難しいんです」ということになります。(P153)

安定するには、完全に拒絶するか、完全に一体化するか、どちらかになりがちだと。

それだけ、安定するのは難しいようです。


この章では、イリーナ・コルシュノウ作の「だれが君を殺したのか」という児童文学が紹介されている。

大ざっぱに書くと、子がある時、親の生き様を鼻で笑うようなことを言います。すると、父親の方が言うのです。俺は確かに理想の父親ではないかもしれない。でも、だからといって、俺を傷つけることはゆるされない。真剣に生きて、考え抜いて、それで決めたことに対し、誰も何も言えないと。

どんな結果であれ、真剣に生き抜いたことには、誰も文句をつけることはできない。

その通りですね。


子どもが親と違ったことをするのは、それはもう理屈じゃなくて、「そんなもの」であるようです。

それぞれの時代で、そんなことが起こっている。

そうなると、親の立場では「世も末だ」と思いがちだけど、いつの時代でもだいたいそうだったわけだし、自分が子どもだった頃のことを考えると、また思うこともあるだろうと。


何にせよ、そうやって世界は回っているようです。





身近なだけに、割とよく見える。

身近なだけに、複雑。

言われる方は、痛いところを突かれる。

あるいは、触れられたくないところに触れられる。

こうなるともう、どちらの立場でも、ややこしそう。


でも、そこには、よい点も。

気づいてなかった点に、気づくことができる。

ただし、それは耳の痛いこと。

他人に言われれば、大ゲンカになります。

縁が切れることだって、あるかもしれません。

でも、逆に考えると、だからこそ、縁を切るわけにはいかない子どもが、その役割を担うのかもしれませんね。


人であれ、家族であれ、世の中であれ、閉塞した壁を突破するには、こういうことも必要なのかな。




だれが君を殺したのか (世界の青春ノベルズ)






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posted by 南方城太郎 at 13:33 | TrackBack(0) | こころの子育て

2012年07月16日

「Q32 親の心と子の心/こころの子育て」

「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<若葉のころ――思春期>


Q32 同じ苦労を子どもにはさせまいという思いが通じません。

  → 「自分が考える幸福」を押しつけても役に立ちません。



物事の価値は、置かれた状況で変わるようです。

例えば、お腹が空いている時の饅頭(まんじゅう)と、お腹いっぱいの時の饅頭とでは、価値が違ってくる。

店で売っている値段は同じでも、その人が受け取る気持ちは違います。


河合隼雄さんも本の中で紹介されていますが、よくある例だと、苦学した親が子のために参考書をたくさん買ったり、家庭教師をたくさん雇ったりする。

親としたら、「どうだ! いいだろう!」というわけですが、子どもの方にはどうも伝わらなかったりする。場合によっては、やる気をなくしたり、反発することも。


これも、空腹の話と同じです。

苦学した親は、お腹が空いてしょうがなかったのと同じように、勉強に飢えていた。

でも、子どもにしたら、お腹が空いていないというか、すでにお腹いっぱいだったりする。

お腹いっぱいのところで ごはんを出されたら困るように、すでに満たされているところに足されたら、たまらないわけです。

お腹が空いた経験をした親は、「さあ食べろ」と料理を出す。それを続けられた子は、だんだんとウンザリしてくる。

こういった構図です。


こういう時に、「いまの子は恵まれている」と言っても仕方ない。

置かれた状況が違うのです。

今の子は昔ほど、食べ物にも勉強にも、飢えてない。

そして、じゃあすべてに満たされているのかというと、そうでもなさそう。

別の何かに飢えて、欲しがっているのでしょう。


状況が変われば価値も変わるもので、昔の価値が通用しないこともしばしば。

昔、価値があったのは事実。でも、今はそうでないのもまた事実。

両方とも、本当です。


価値観の押しつけや親の自慢話は、一方通行になりがちだという。

でもこの時、言うと共に相手の話を聞いてみると、何か出てくる。

そしてそこには、相手の価値観や気持ちが、隠れているのでしょう。

意外と面白い意見も、出てくるかもしれない。


というわけで、一方的に言うのではなくて、相手も話せる状況を作っておくのがよいと。





これもある意味、時間差の罠(わな)か。

今と昔で、意味が違う。

置かれた環境や状況で、価値が違ってくる。

しかも、人が違うのだから、気持ちも違う。


「わたしはいいと思う」→「だからあなたにもいいに違いない」

こうなると、相手の気持ちがありません。

「わたしはいいと思う」→「あなたはどう思う?」

こう聞くと、相手の気持ちが出てきそうです。


しかし、あれですね。

足りてくるというのも、いいことばかりじゃない。

無いと欲しいと思うし、得るにはどうしたらいいかと工夫したり努力します。

そして、得たらやっぱりうれしい。

そんな喜びが、昔ほど単純じゃなくなっているのかな。


満たし方が、昔とは違ってきてるようです。

ということは、満たされない思いは、やっぱりあると。





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posted by 南方城太郎 at 18:18 | TrackBack(0) | こころの子育て

2012年07月12日

「Q31 子どものすることが受け容れられない/こころの子育て」

「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)より。


<若葉のころ――思春期>


Q31 子どもがしていることがどうしても受け容れられません。

  → そういう状況を、親も一緒になって作ってきたわけです。



親が本当に嫌っていることを子どもが好きになったら、親はものすごく考える必要があると、河合隼雄さんは言う。

そしてそういう時は、「本当に好きか」と聞いてみる必要があると。


「それはダメだ」と言うだけだと、そこで話は終わってしまう。

でも、本当に好きなのかなどと聞いていると、思わぬ話が出てくることも。

河合さんがよくするたとえ話に、パチンコをしに行くのは楽しいからじゃなくて苦しみに行っているような気がすると話した大学生のエピソードがあります。

ダメだと言うだけではこういう話は出てこないけど、相手の気持ちの中に入っていると、思いがけないものが出てくる。

その過程で、表面上の問題とは直接関係ない「何か」が出てきて、本人も気づいたりすると。


「子どもが○○にのめり込む」というのは、別の側面では「そうせざるを得ない状況になっている」とも受け取れる。

ということは、親も一緒になってそういう状況を作ってきたのかもしれないと。

でも、だいたいそういう時、親というのは、自分のことを棚上げしがち。

子どもがこんなことしだしたとか、どうもヘンだとか言う。

「自分の子どもにしては」とか「自分の子どもなのに」と言うけれど、むしろ「自分の子どもだから」そうなっている。


子どもがすごいことをしたり、すごいことを言ったりするのは、そうでもしないと気づいてもらえないから。

遠くの人に怒鳴るようなもので、それだけ距離があるということ。

「子どもが怒鳴っている」のか「子どもが怒鳴らされている(怒鳴らざるを得ない状況に追い込まれている)」のか、よく考えないといけない。

親が気づかなければ気づかないほど、子は激しいことをする。





距離と怒鳴る話は、なるほどな〜と思いました。

なかなか本当のことは言えない。なかなか直接的には言えない。

あるいは、意識できてないかもしれない。

そんな中で訴えるのだから、別の方法になると。

しかもそれは、親が嫌がっているものになりがち。

必ずしもそれをしたいとかそれが好きだというだけでなく、その奥には何か隠れていると。

それが出てくるために、保護された空間、何を話してもいい空間と、話を聞いてくれる相手がいるわけか。




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posted by 南方城太郎 at 11:48 | TrackBack(0) | こころの子育て