2012年10月29日

「(9) 理想と灯台と難破/こころの処方箋」


河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<灯台に近づきすぎると難破する>


誰しもが、何らかの理想を持っているのではないでしょうか。

それを目指すかどうかは別にしても、いろんな理想像を持っているものだと思います。

理想の父、理想の母、職業的な理想の○○、家庭内での理想の○○、スポーツや趣味などでも理想の○○はあるかもしれません。

でも、河合隼雄先生によれば、理想の○○に近づいた時は注意が必要なのだそうです。


ある人は、理想の○○となり周囲からも称賛を受けたものの、それがゆえに、後戻りできなくなったといいます。

24時間、理想の○○でいなければならなくなり、ついには疲れ果て、破局寸前までいってしまったという。

外からは称賛を受けるものの、内面では、「本当は理想の○○なんかじゃないんだ!」という叫びがあったのです。


その人は、理想のペルソナ(仮面)を身につけることに成功した。

周囲も、それを褒めました。

でも、おかげで、仮面を外すことができなくなってしまったのです。

それで息がつまり、死にそうになってしまった。

仮面を脱ぐ場所が、なくなってしまったんですね。


理想は理想で、素晴らしいことです。

それは人生の道しるべにもなるし、「今の自分はどうなんだろう?」という確認にもなります。

今はぜんぜん届かないなあとか、ちょっとは近づいたなあとか、もうちょっと方向を変えようかとか、船でいう灯台の役割を果たしてくれると。

でも、河合先生は「灯台はゴールではない」という。

船は灯台を目印にはするものの、灯台そのものに近づくわけではありません。

灯台を目印にして通過し、目的地や次の灯台に向かったりする。

そして、灯台そのものに近づけば、いずれ座礁するでしょう。


理想から遠い時、理想像は灯台の役割をするという。

それに近づくにはどうすればいいのか、その目安になるでしょう。

でも、距離が縮まった時は、考え直す必要があるという。

本当は、どこに向かっているのだろう?

次の灯台があるのではないか?

闇の中に、何か隠れてはいないだろうか?




理想は理想で、素晴らしいものです。

でも、理想が別の何かに犠牲を強いていることもあります。

そして理想ばっかりになると、その一方で、犠牲ばっかりになる部分も。


キレイなことばっかりしていると、どこかで汚いことをしなければならなくなる場合もあるという。

24時間キレイでいると、それを取り返すかのように、短時間で驚くような汚いことをすることになったりする。

もし、そうでない場合でも、近くの誰かが、その役割をさせられているような場合も。


理想は素晴らしい。

でも、そればかりになったら、要注意なようです。


仮面は脱げる場所がないと、息がつまります。

24時間ずっと○○でいると、他の自分が死んでしまいそうです。





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posted by 南方城太郎 at 16:32 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2012年10月25日

「(8) 心の自然と自然破壊/こころの処方箋」


河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<心のなかの自然破壊を防ごう>


世の中では、いろんな事件が起きます。

報道でそれに触れると、「え? こんなことで?」「ささいなことで、こんなことをしてしまうのか?」と思うことも少なくないかもしれません。

でも、それはちょっと急ぎ過ぎかもしれませんね。

事件の瞬間だけを見ればそうかもしれませんが、「それまで」というものを考え出すと、なかなかそうも言っておれなくなります。

また、「それまで」が全部 目に見えるかどうかも分からないので、余計のこと、何も言えなくなる。


原因についてあれこれ言いだすと短絡的になりやすい。河合隼雄先生は、そう言います。

どこかの部分を悪者にして排除するのが正しいのかどうか。



人間の中には、たくさんの自然があります。

あるいは、人間も自然の一部なのかもしれません。

人間の中の本来自然であるべき部分が害されると、つまり不自然になると、人は病気になったり、何かの問題が出てきたりするという。

子どもだと、ひどく元気をなくしたりする。大人でも、訳の分からない不安に襲われたりする。


じゃあ、自然は素晴らしいので、全部自然に従って生きればいいのかというと、そうでもありませんよね。

お腹が空いたからといって授業中や就業中にご飯を食べるわけにはいきません。

オシッコがしたくなったからといって、どこでもしてたら、たいへんなことになる。

多少の我慢は必要で、かといって我慢しすぎると危ない。

基本守るべきものがあって、それと共に、例外もあります。


心の中の自然にも、こういうことが言えるという。

あまりに不自然になると、何が起こるか分からない。

生命の危機に陥るかもしれない。何かが噴火するかもしれない。

でも、自然をただ好きにさせるだけなのも、違う。

そういった付き合いの難しさがあります。


自然や社会性について考えるとなかなか難しい部分がありますが、どちらにしても、あまりに一方的だったり、あまりに量が多くなると、バランスを崩したり、問題が生じたりするようですね。

その理(ことわり)については、過去の記事とも関係するようです。

<ふたつよいこと さてないものよ>

一方的にならないようにバランスをとる結果が、これなのかもしれない。


こういうことを考えると、事件や問題に接した時、今までとは違った考えや感想が出てくるかもしれません。

心の中の自然は、どうだったのだろう?

自然破壊は、なかったのだろうか?

一方的なことが長期間行われてなかったろうか?

追い詰められてなかったろうか?


子どもは、不自然さや何かが足りないことを、感じることがあるという。

でも、明確に意識できるわけではないし、口に出せるわけでもありません。

なので、症状として表に出てきたり、問題や行動として現れることもある。

そんな時には、本当に自然だったのかと、振り返ることも大切なのかもしれません。


もっとも、本当の自然と、社会的に自然なのを、混同してはいけませんが。

あと、「そればっかり」ということにも、注目した方がいいかも…。





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posted by 南方城太郎 at 00:59 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2012年10月22日

「(7) 日本と世界と国際性/こころの処方箋」

河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<日本人としての自覚が 国際性を高める>


国際化が進むにつれ、日本人も単に日本国内でだけ付き合うということが困難になってきました。

仮に直接的な付き合いはなくても、どこかでつながっていたり、影響を受けたり与えたりしています。


日本の文化は独特で、故に外国の人には分からないのではないか。

そう主張する人もいます。

その一方で、国は違えども同じ人間なのだからと主張する人もいる。

日本人も他の国の人も同じであると。


でも、これ、どちらも間違ってないし、かといって、すべてがそうかというと、そうでもないですよね。

確かに、理解しにくい部分はある。でも、理解できる部分もあるはず。

確かに、同じ人間である。でも、文化も生きてきた環境も違う。


河合隼雄先生は、これを個人に当てはめてみると分かりやすいと、おっしゃっています。

「わたしのことはあなたには理解できないでしょう」、そう言われたら、そこで終ってしまいます。

これから付き合おうとは、思わない。

その一方で、「みんな同じ人間です」とか言われて個性も独自性も見せない人には、あまり魅力を感じない。

同じ人間という枠に押し込められるのも、それはそれで窮屈です。


日本独自の文化を語る場合には、(日本人ではない)相手にも分かるように話す必要があるという。

できれば、他の国の言葉で話すのがいいと。



わたしはこの地球に住む、地球人である。

わたしはこの日本に住む、日本人である。

わたしはこの地域に住む、○○の人である。(例えば、関西人だったり、関東の人だったり)

あるいは、都道府県だったり、町だったり。


人間は長く生きていると、いろんなことを考えるようになるという。

国際的に生きていた人が、ある時ふと、日本人だということについて深く考えるようになったりする。

日本に住み日本のことだけを考えていた人が、ある時、世界というものを意識せざるを得なくなったりする。

こういうことがあります。


日本について考えてると、世界というものを考えるようになる。

世界について考えると、日本について考えるようになる。

個人について考えていると、社会というものを考えるようになる。

社会について考えていると、個人というものを考えるようになる。


すべては、つながっているようです。

つながっている以上、そのうちの1つだけでは、成立しない。


自分を好きな人は、相手も好きになるという。

自分を大切にする人は、相手も大切にするという。

自分に誇りがある人は、相手の誇りも大切にするという。


この「自分」を「日本」に変換し、「相手」を「世界」や「他の国」に変換したら、どうでしょう?


日本だけを大切にしようとする人は、時に、世界や他の国を大切に扱いません。

また、世界だけを大切にしようとする人は、時に、日本をひどく軽んじたりする。

こういうのはもうたくさんなので、ともかく両方はつながっているのだと認め、単に日本だけを考えるのでも、単に世界だけを考えるのでもない、そういった方向こそ、真の国際派なのかもしれません。





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posted by 南方城太郎 at 13:46 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2012年10月18日

「(6) 我慢と自己主張とその先/こころの処方箋」


河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<言いはじめたのなら 話合いを続けよう>


黙って耐えることは、日本人にとって美徳でした。

つらさに耐え、不平や愚痴も言わず、黙々と生きる。


しかし、ライフスタイルと共に考え方も変わってきて、思ったことはどんどん言うべきだという人も増えてきた。

特に女性においては、この傾向が顕著なのかもしれません。

何せ、ひと昔前の女性は、男には「黙ってろ」と言われ、同性にも「黙っているべき」なんて言われてきたから。

反動が出るのも、納得です。

(といっても、全部が全部、そうだとも思えませんが)


今までが「黙って耐える」状態だとすれば、今は「自己主張をはじめる」状態。

でも、それだけでは変わらないという。

あくまで第一歩を踏み出しただけで、その先があると。


本に書いてある例だと、相手の言い分も聞き、さらに自分の考えも述べ、そういう風に話し合いを続ける。

そうした中で、妥協点を探すのです。

自分の言い分だけを伝えて、それだけで終わらない。

投げっぱなしにならない。


それをやり抜くには、たいへんな努力が要るようです。

ただ、努力をしたくないからと やり方を(180度)変えても、仕方ない。

黙って耐える生き方をするにしても、自己主張して話し合おうとする生き方をするにしても、それを維持するには相当の努力が必要なのです。

黙って耐えるには、我慢が必要。

そして、自己主張するにしても、相手の話を聞かねばならないわけで、我慢が必要になってきます。

前に出てきた、「ふたつよいこと さてないものよ」ですね。


我慢に慣れ親しんでいる我々日本人は、意見を伝える時、「最後通告」になりがちだという。

イエスかノーかはっきりしろ、ノーなら もうおしまいだ、みたいな。

でも、本当は、意思を伝えてからがはじまりで、そこから関係がはじまるようです。





確かに、我慢して我慢して我慢して、最後にドーン! というパターンは多いのかもしれません。

定年離婚なども、そうなのかな。

それを回避するには、我慢はほどほどにして、気持ちを伝え、さらに話し合うことが必要なのかもしれません。


でも、日本人は、話し合いに慣れていない。

それ以前に、気持ちを表明することにも、慣れてないかも。

だから、政治とか、社会問題とか、そっちの方にこそ大声を上げる。


そこには、日本人としての生き方の問題があるのかもしれませんね。

そしてそろそろ、変わらねばならないのかもしれない。

本当の問題は、「どのように変わるか」ですが。





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posted by 南方城太郎 at 09:14 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2012年10月15日

「(5) 理解ある親?/こころの処方箋」


河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<「理解ある親」をもつ子は たまらない>


問題を起こした後、「自分でもよく分からない」ということがあります。

言葉通り、「なぜか分からないけど、○○をしてしまった」みたいな。


子どもはその成長において、急カーブを描くことがあると、河合隼雄先生は言う。

その時には得体の知れないエネルギーが湧きあがり、それを何かにぶつけることで、自らの存在を確かめるようなところがあると。

そのぶつかる第一の壁というのが、親ということになります。

親という壁にぶつかり、いろんな経験をしていく。

時には限界を感じたり、腹を立てたり、そうしながら成長すると。


「理解ある親」は時に、「誤解する親」になってしまうことがあるという。

子どもの気持ちとしては「よく分からない」なのに、親の方は「○○するおまえの気持ちもよく分かる」などと言ってしまう。

そして、肝心の壁になることを、回避してしまいます。

そうすると、子どもの方は、ぶつかる先をなくしてしまう。

どこまで行っていいか、分からなくなってしまう。

こういうのが暴走につながり、時には、法や社会的規範まで破ってしまうと。

さらに河合先生が言うには、子どもがぶつかりたいのは「生きた人間」だといいます。


子どもは親にぶつかって、成長する。

なので、ぶつかる先がないと、成長のしようがないと。

そして胸を貸すからには、親にそれなりの強さが求められるといいます。

自分の人生をしっかりと歩んでなければならないと。


ある意味、訳の分からないことをしてしまうというのは、理解あるふりをしたり、理解していると勘違いしている親に、「訳が分からない」と言わせ、それに気づかせるためかもしれない。

あるいは、壁になることを回避している親を、追いかけ回しているのかもしれません。

といっても意識してそうするわけでなく、無意識に、そういう布置が作られるということ。

だから、訳が分からない。


河合隼雄先生は言う。

真に理解するなどという不可能に近いことをするよりは、まず自分がしっかり生きることを考える方が得策だと思えると。





というわけで、「理解ある親を持つ子は、たまらない」ではなくて、「理解していると誤解している親を持つ子は、たまらなくなる」のようです。

子どもだってその辺のことは理解してないんでしょうけども、それでも薄々とは分かるし、無意識はそういうことを訴えてくる。

「そんなんおかしい」「このままでは、あかん」「ちゃんとせえ」

関西弁でいえば、こういうことを訴えかけてくる。

といっても、表面的にや社会的には、親はおかしくなく、むしろこのままでよく、ちゃんとしてたりする。

でもそれは全部ではなく、どこかは実はおかしくて、どこかで変わらなくてはならず、どこかでは手を抜いていたりすると。

無意識の働きというのは、それを知らせるものなのです。


事件になると、親や先生、大人たちは慌ててしまいます。

けれど、このような点についても考えれば、「あっ!」というようなことも見えてくるかもしれません。

今はまだ奥にあるので見えないし、訳が分からないといった風になるのですが。





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posted by 南方城太郎 at 15:34 | TrackBack(1) | こころの処方箋