2013年01月31日

「(22) 自立と依存の関係/こころの処方箋」

河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<自立は依存によって裏づけられている>


自立:独り立ちすること。支配や助力を受けずに、存在すること。自分ひとりの力で、物事を行うこと。

依存:他に頼って存在したり、生活すること。



評判のよい標語とされる「自立」。

でも、河合隼雄先生は言います。

どんなにありがたい標語でも、人気と共にひとり歩きを始めると、不都合なことが生じるものだと。


自立することがあまりにも力を持ち信仰されると、極端なことが起こるのだという。

ある家庭では、一刻も早く自立させようと、幼稚園児をできるだけ自分から離すようにして育てたそうな。で、どうなったのかといえば、そのお子さんは言葉を話せなくなってしまった。

このような自立は見せかけだけであると、河合先生は言う。これは親に押されて小さい子が辛抱しているだけであって、自立しているのではないと。

その子がどうなったのかといえば、お母さんがそれを理解し、存分に甘えさせたそうな。すると、今までを取り返すように子どもは甘えに甘え、それと共に、言葉の障害も消えてしまったようです。


自立と依存は相反することなので、そこに人間は、対立構造を作りがちです。でも、その考え方は間違っていると、河合先生は言う。むしろ、「自立は十分な依存の裏打ちがあってこそ、そこから生まれでてくるものである」というのです。

一番多いのは、「子どもを甘やかすと自立しなくなる」というものかもしれません。確かに、子どもを甘やかすうちに親がそこから離れられなくなると、自立の妨げになるという。でも、それは、親の方の問題です。甘えることと甘やかすことの境界があいまいで、大人の方に分別がついていない状態。

「親が自立的であり、子どもに依存を許すと、子どもはそれを十分に味わった後は、勝手に自立してくれるのである」(P93)。

こういうのは、空腹を考えると分かりやすいのかもしれません。お腹が減ったと泣かれたら、お乳をあげるなり、ごはんを食べさせるなり、したらいい。そうしたら、泣きやみます。

ダイエットだって、そうでしょう。適度に食べた方が痩せる。あまりに過激にやると、食べたい気持ちが大きくなって、かえって失敗します。食べる量を控えたい時は、「食べない」のではなく、「適度に食べる」方がよさそう。

だいたい、ずっと食べないわけにはいきません。これと同じで、小さい子は甘えないではおれない。依存しないでは生きていけないのです。それに、ここであまりに我慢させると、あとでやり直しをすることになったりするんだし。

ツケを、あとで払うことになります。


そもそも、人間は依存しないでは生きていけない。この世に生きるということは、誰かに何かを頼っているということなのです。食べる物、着る物、住む所など、誰かに何かしらを頼っている。それは単に、お金を払っているから云々ということではありません。

なので、自立というのは依存を排除することではなく、必要な依存を受け入れると共に、それを自覚し感謝することであろうと、河合隼雄先生は言うのです。そして、依存を排除して自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまうと。


日本より自立的であるとされる欧米ですが、親子のつながりは強いという。節目節目では集まるし、電話などでの連絡も密にする。贈り物の習慣も、そうだといいます。そんな風景に接し、河合先生は思った。彼らは自立しているからこそ、よく付き合っているのだと。

確かに、付き合いのまったくない自立は、孤立なのかもしれない。なにも頼るのが悪いわけではなく、互いが寄りかかってしまうばかりの関係が危ないのです。自立した者が互いに助け合う。それこそが本当の自立であるようですね。


世の中には、対立しているものが、たくさんあります。そしてそうなると、互いがどうしても、排除しようとしてしまう。でも、案外、対立しているだけでなく、共存している面も、そこにあるのかもしれません。

確かに違う。むしろ、逆だったりする。でも、そこには、性質が逆なだけで意外によいものが、存在しているのかもしれません。





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posted by 南方城太郎 at 02:50 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2013年01月24日

「(6) 努力はムダ?/アワビさん」

絵のないマンガシリーズ「アワビさん」。


<ものごとは 努力によって解決しない>



<登場人物>


アワビ:天真爛漫な奥さん。ちょっと、オッチョコチョイ。

ツナオ:アワビの歳の離れた弟。小学5年生。トンチがきく。

サケオ:アワビの夫。やさしいが、優柔不断?

コンブ:アワビやツナオの妹。

コマちゃん:アワビとサケオの息子。コマイ。

なぎ平:アワビやツナオの父。

ソウ:アワビたちの母、なぎ平の妻。




なぎ平

「ツナオ、何だこのテストの点は?」

ツナオ

「ちょっと、お父さん、そこに座って聞いてよ」

なぎ平

「お、おお」

ツナオ

「人間には、得手不得手というものがあってね」

なぎ平

「あ、ああ」

ツナオ

「どんなに頑張っても、どんなに努力しても、できないことがあるんだよ」
「そうは思わない?」

なぎ平

「まっ、まあな」

ツナオ

「ボクにとっては、それが算数なだけさ」
「それを責められるかい?」

なぎ平

「む、むむ」
「そう言われると…」

ソウ

「何言ってるんです」
「そういうのは、努力した人が言うことですよ」
「お父さんも、しっかりしてくださいな」

なぎ平

「はい…」







確かに、努力ではどうにもならないことがありますよね。

それはもう、しょうがありません。

でも、それも、確かめてみないと分からない。

やれば、案外、できたりすることもあります。

また、100点は無理でも、70点や80点までなら、いけることもある。


なので、どちらにも、決めつけられませんね。

やってみないと分からない。

そして、やってみた経験を、人生に活かせばいい。


あと最近、努力する才能について、よく考えることがあります。

ある一点に対して努力を継続できるのは、ありゃ、一種の才能でしょう。




タグ:アワビさん

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posted by 南方城太郎 at 15:13 | TrackBack(0) | アワビさん

2013年01月21日

「(21) 努力すれば うまくいくのか?/こころの処方箋」

河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<ものごとは 努力によって解決しない>


努力が報われないことがあります。

でも、その一方で、あまり努力をしているように見えない人が、成功を勝ち得ているように思えることもある。


できるかぎりの努力をしているのにと、嘆く人もあります。

何かよい方法があると聞くと、時間やお金をかけてでも試してみる。

いろんなところに行ってみたり、いろんなことを試してみたり。

でも、効果は出ない。

なので、努力なんてしても無駄だと思えてしまう。


では、なぜ、そう思えるのだろう?

河合隼雄先生は、ある時、気づいたという。

「努力さえすればうまくいく」とか「努力で何でも解決できる」とか、それは本当なのだろうか? と。

そしてやがて、いや、それはおかしいんじゃないだろうか、と思えてきたといいます。



努力が万能だとしてしまうと、「うまくいかないのは努力が足りないからだ」となってしまう。

それで自分を責めたり、他の何かのせいにしたりと、悪者を作ってしまいます。

それによって苦しみを、倍加させてしまう。

努力信仰のせいで、不必要に自分を苦しめてしまうというのです。


「ものごとは努力によって解決しない」

この言葉は、インドの思想家、宗教的哲人で教育者のクリシュナムルチ(ジッドゥ・クリシュナムルティ)さんの言葉だという。


例えば、「子どものためにできる限りの努力をしている」という人がいる。

でも、見ていると、まるで解決するはずのない努力に邁進し、それを免罪符にしているかのように見えてしまうという。

「努力している」ことに価値を見出し、「何をしているか?」は考えようとはしない。

子どもの気持ちを考えているのかどうかも、実のところ、分からない。

努力を優先することで、他を放ったらかしにしているように見えることも。

さらには、逃げているようにも見える。

何も努力せずに ただそこにいる、ということが怖ろしいので、努力の中に逃げ込んでいるのではないか? というのです。

努力以前に、父であり母でありということを全うするのが怖ろしいので、努力するという行為に逃げているのではないかと。


あるいは、急ぎすぎるのではないかと、河合先生は指摘します。

「努力すれば何でも解決する」

そう言いながら、解決の方にばかり気がいってしまう。

それで努力が疎かになっているのではないかと。

物事には順序があって、それを飛ばすとうまくいかないことがあります。

なのに解決を急ぎすぎると、順序を飛ばすことになり、結果が得られません。

例えば、まだ煮込んでいる途中なのに、味付けをして、さっさと食べようとする。

そうすると、芯は残ってるし、味は染みてないしで、おいしくなりません。

じっくり煮込むのを飛ばした結果、よろしくないことになってしまう。

なのに、そういう「やり方」には注目せずに、「何でだろう?」と嘆いてしまう。




努力が実を結ぶことがある。

そうなると、うれしい。

でも、努力が実を結ばないこともある。

それはそれで、仕方ない。

この両方を持っていると、そんなにしんどくないのかもしれません。

イライラすることも、少なくなるかもしれない。

必ず実を結ぶと信じてしまうと、実がならないことにイラついたり、何か悪者を作ってしまうことになりがちだから。


努力は無駄にはならない。

(結果は得てなくても、別の何かを得ていたりするから)

けれども、努力は万能でもない。

(必ず思う結果を得られるわけではないから)

どちらも、本当です。


努力が万能だと思うから、イライラする。

自分を責めたり、誰かを責めたりしてしまう。

また、努力が無価値だと切り捨てると、それはそれで得るものが少なくなったりする。


なので、二者択一でない努力を胸の中に抱き、また、経験するといいのかもしれませんね。





人生をどう生きますか?





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posted by 南方城太郎 at 15:20 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2013年01月17日

「(20) 本当の理解とは?/こころの処方箋」


河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<人間理解は 命がけの仕事である>


他人を真に理解することは命がけの仕事だと、河合隼雄先生は言います。

このことを認識せずに「人間理解は大切」だと言うのは、甘すぎると。


人間の感情というものは、それそのものは目に見えません。

なので、言葉や態度などで、間接的に感じることになる。

時に人間は、激しい感情を持ちます。

そして、その瞬間だけを見れば驚くようなことでも、事情をよく聞いてみると、なるほどなと思えることも多い。


ただ、激しい感情を理解するのは、相当難しいようです。

ある人は、誰かを殺したいと言うかもしれない。

また、別の人は、もう死んでしまいたいと言うかもしれない。

そこには、命が関わってきます。

「そんなのは口だけだ」と言う人もあるけど、果たしてそうでしょうか?

では、なぜ、実際の悲しい事件が起きているのでしょう?

でも、それにしたって、うなずける面もあります。

激しい感情を毎度毎度ぶつけられて疲弊している人は、「そんなのは口だけだ」とでも言いたくなる。

そう口にする人でさえ、事情があるのです。


相手を殺したいとか、自分が死んでしまいたいとか、そう言われた時、どうすればいいのでしょう?

止めるのがいいのか? やりたいようにさせればいいのか?

答えは決まってないようです。

というか、答えを決めてしまうというのは、理解とは離れた行為であるようです。

相手の立場や気持ちを汲み取ることなく、答えを決めるのだから。



このように考えると、言葉レベルでなく、本当に相手を理解しようとする時は、己も命をかけることになりそうです。

生半可な気持ちでやると、危なさそう。




夫婦間や家族間など、相手を本当に理解しようとすると、自分の根っこが揺さぶられるという。

自分とは違った価値観や生き方の人を、認め、理解する。

ということは、どうしても、自分の価値観や生き方に、疑問が生じてしまう。

相手を認めることは、自分を疑うことにも、つながるのです。


こういう意味でも、相手を理解しようとすることは、命がけになります。

自分を懸けることになる。



このようなことを考えていると、人間理解は危険で恐ろしいと、躊躇してしまいそうになります。

でも、それがまったくない方が怖いので、多少躊躇した方がいい。

そしてそれを知った上で、時々は命がけの仕事をした方が面白いのではないかと、河合先生は言います。





山登りも、命懸けですよね。

気軽にやると、危ない。

でも、逆に、それを意識して臨むと、得るものもあると。





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posted by 南方城太郎 at 09:50 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2013年01月14日

「(5) 男女の理解/アワビさん」


絵のないマンガシリーズ「アワビさん」。


<男女は協力し合えても 理解し合うことは難しい>



<登場人物>


アワビ:天真爛漫な奥さん

ツナオ:アワビの歳の離れた弟。小学5年生。

サケオ:アワビの夫。

コンブ:アワビやツナオの妹。

なぎ平:アワビやツナオの父。

ソウ:なぎ平の妻、アワビやツナオの母。



ソウ:

「あら、またこんなに酔っ払って」

なぎ平:

「男にはいろいろとあるんだよ」

「それより、母さん。水をくれ」

ソウ:

「家庭をあずかる主婦のたいへんさも、ちょっとは、わかってくださいな」

なぎ平:

「スマン、スマン」


そんな様子を覗いている、ツナオとコンブ。


ツナオ:

「夫婦の危機とか言うけど、うちは大丈夫だな」

コンブ:

「どうして?」

ツナオ:

「父さんが一方的に、負けてるからさ」







男女、男と女。

同じ人間だけど、違う存在。

違うから、互いに惹かれる。

互いに助け合える。


理解。

相手の立場や気持ちを、汲みとれること。


同じだと、理解しやすい。

でも、違うものを同じだと思い込むと、理解を間違う。


同じ人間、同じ家族。

でも、ひとり一人は、違う人間。


同じだと強く思うと、違うと感じてしまう。

では、もともと違うんだと思えば?


理解とは、違う人間同士が歩み寄ることかもしれない。

「互いに」というのが、ミソ。




タグ:アワビさん

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posted by 南方城太郎 at 11:20 | TrackBack(0) | アワビさん