2013年06月20日

「(25) 善行・ボランティアスピリッツの落とし穴/こころの処方箋」

河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<善は微に入り細にわたって 行わねばならない>


尊い行為である「ボランティア」活動。無償の奉仕活動。

でも、注意しておいた方がいいことも、あるようです。


ボランティアの基本は、「自主的」であること。

それはある意味、自分が好きで、そうすること。

でも、好きなことをするのは時に、近所迷惑になることがあるという。

特に善行だと固く信じている場合、近所迷惑を忘れがちになるといいます。


手伝いが、自立の妨げになることもあるという。

善い行いが、人の間に波風を立てることだってあるらしい。

何が起こるか、分かりません。


その時に大事なのが、「あれ?」と思えるかどうか。

様子がおかしいぞとか、何かへんだ、顔色が悪い、など。

そこで修正できる人は素晴らしいという。

逆に、いいことなんだからと頑なになると、物事は悪い方に行ってしまいがち。

なので、立ち止まることが大事になります。


これは、ウィリアム・ブレイクという人の言葉から、来ているらしい。

「他者に善をおこなわんとする者は、微に入り細にわたっておこなわなければならない」



どんなに善いことも、時には近所迷惑を気にした方がよさそうです。

特に、「人のため」にしていることは「人と関わり合っている」ことなので、人を無視すると危ない。

なので、人の顔を見ることを忘れてはならないようです。


善行無罪という感覚は捨て、ちょっとは疑問を持ちつつやるくらいが、いいのかもしれません。





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posted by 南方城太郎 at 10:01 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2013年02月21日

「(24) ○○が第一という病気/こころの処方箋」

河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<健康病が心身をむしばむ>


河合隼雄先生が、「健康病」というものを紹介してくれています。これは、ともかく健康第一ということで、他のことはまったく無視してしまうような状態のこと。

何よりも健康が第一となり、○○がよいと聞くと追いかけ、そればかりになる。逆に、××が健康に悪いと聞くと、目の敵にし、徹底的に排除する。とにもかくにも、極端で、融通が利かない。こうなると、ギスギスしてきて、食事も楽しくありません。

さらに、この健康病は、伝染性を持つという。健康病の人は、とかく健康法を人に勧めたがるものです。自分が好きでやっている分にはいいのですが、人に勧めることで他人の領域に侵入してしまい、相手をウンザリさせてしまう。



物事というのは、よい面も悪い面も、両方含むようです。功罪、併せ持つ。そしてこれは、食べ物や運動だって、同じですよね。健康によいといわれるものでも、極端にやりすぎると、かえって健康を害する場合があります。逆に、健康に悪いといわれるものでも、ほどほどなら問題なかったりする。

食べ物にしたって、どんな食材にも、多少 健康によくない要素は含まれていると思われます。ただ、それは微量なものなので、特に問題にしてない。また、普通の食生活を送っていれば、問題になることもないと。

ところが、健康病にやられると、この微量に対し、過剰に反応してしまうことがあります。ふつうに食べている分には問題なかったり、あるいは調理の仕方で大丈夫だったりするのに、それを無視して、その食材を否定してしまう。

微量な害のある要素に注目することで、他が見えなくなってしまうのです。問題なくする方法が、いくらでもあるのに。そしてそのために、本来得られるであろう、健康的な要素を摂取する機会を失ってしまいます。



気をつけるのは大事であるにしても、過剰に気にしていたのでは、かえって不健康な気さえします。ギスギスしたり、不安になったりと、特に心の健康が害されそう。

だいたい、過剰に気にすれば他に対する注意が薄れるので、別のどこかで問題や不具合が生じそうです。

どうも、健康病というのは、心の不健康とつながりやすいようですね。そしてそれは、「認識」や「認識力」というものに、関係しそうです。認識の仕方が、どうも極端だというわけ。


いきすぎた○○が第一は、視野が狭くなっている状態。この時、「場合場合」「ケース・バイ・ケース」ということを忘れると、場にマッチしない選択をしてしまいそうですね。


人間、集中することも大事ですが、そればかりになるのも危ない。

時には顔を上げてキョロキョロし、まわりを見た方がいいようです。

そうすれば、周囲とのズレや、道から外れてるかどうかも、確認できます。

まあ、何事も、ほどほどにということで…。





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posted by 南方城太郎 at 14:20 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2013年02月18日

「こころの処方箋 目次 (1/3)」

新潮社「こころの処方箋」(河合隼雄 著)より。

それぞれの記事への目次です。

このページは、(1)〜(18)まで。



(01) 人の心はわかるか?
 → <人の心などわかるはずがない>
   心理の専門家は、人の心が分かる人ではない。
   分からないから、ようく見てみる。

   <分からないことを分かろう>


(02) ふたつよいこと さてないものよ
 → <ふたつよいこと さてないものよ>
   いいことばっかりじゃない、でも、悪いことばっかりでもない。
   よく見てみると、両方がある。

   <それを認めた上で、選ぼう>


(03) 正しい忠告は役に立たない
 → <100%正しい忠告は まず役に立たない>
   その人に関わり、いろいろと考えるのが大事。
   そこには自分を賭ける姿勢がある。

   <忠告する時は、関わる覚悟を持って>


(04) 絵に描いた餅
 → <絵に描いた餅は 餅より高価なことがある>
   実際ではないことも評価してもいいのでは?
   心の中にある絵に描いた餅は?

   <意外とイイものの価値と発見>


(05) 理解ある親?
 → <「理解ある親」をもつ子は たまらない>
   本人にも訳が分からないということはある。
   子は親という壁にぶつかって、成長する。

   <言葉にできないこともある>


(06) 我慢と自己主張とその先
 → <言いはじめたのなら 話合いを続けよう>
   自己主張と聞くことはセット。
   「我慢する」から「話し合う」へ。

   <キレない工夫>


(07) 日本と世界と国際性
 → <日本人としての自覚が 国際性を高める>
   日本のことを考えるのだけではなく、
   世界のことを考えるのだけでもない、
   そんなつながりを意識した感覚。

   <地球人で、日本人>


(08) 心の自然と自然破壊
 → <心のなかの自然破壊を防ごう>
   人間の中の自然があまりに害され、
   不自然になると、
   人間はやられてしまう。

   <体や心の声>


(09) 理想と灯台と難破
 → <灯台に近づきすぎると難破する>
   理想像を持つのはいいけれど、
   あまりに近づいたら要注意。

   <目標に手が届きそうな時>


(10) イライラの原因と見通しのなさ
 → <イライラは見とおしのなさを示す>
   本当は自分の中の何かに、イライラしているのかも。
   相手に気になることが、自分の中にもないだろうか?

   <相手の中にある自分に気づく>


(11) 我慢しているのに勝手だと言われる
 → <己を殺して 他人を殺す>
   自分を殺そうとしても、全部殺せるわけじゃない。
   そいつは肝心な時に、顔を出してくる。

   <する・しないじゃない、付き合い方>


(12) 努力が報われない理由
 → <100点以外はダメなときがあるす>
   平均点以上というだけでは、通じない場面がある。
   でも、逆にいえば、ふだんはそこそこでよくて、
   大事な場面で力を出せればそれでいい。

   <力の入れどころ>


(13) 真面目も休み休み
 → <マジメも休み休み言え>
   何事も偏ると、バランスを崩しがち。
   「言う」には「聞く」がセットで。

   <オフがあると、オンは活きる>


(14) したいことは したらいい
 → <やりたいことは、まずやってみる>
   できない理由を考えがちだけど、
   やってみると意外とできるかも。

   <試してみる価値>


(15) 180度の変化、風と風見鶏
 → <一番生じやすいのは 一八〇度の変化である>
   「する」と「しない」になりやすい。
   「やり方」や「あり方」はあまり注目されない。

   <強すぎると、方向転換が難しくなる>


(16) 51対49の心と逆転現象
 → <心のなかの勝負は 51対49のことが多い>
   頑なな態度の奥にある、反対のもの。
   じっと待ってると、何か出てくる?

   <ちょっと奥にある心の声>


(17) ウソで誠を生み出す
 → <うそからまことが出てくる>
   ウソもつき続けると、本当になる?
   でもそこには、難しさも。

   <褒める練習を>


(18) どうして説教するのか?
 → <説教の効果は その長さと反比例する>
   説教と心の健康。
   しないためには、どうすればいい?

   <モヤモヤの処理>




こころの処方箋 (新潮文庫)





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posted by 南方城太郎 at 15:29 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2013年02月07日

「(23) 心のエネルギーと鉱脈/こころの処方箋」

河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<心の新鉱脈を掘り当てよう>


心のエネルギー云々ということが、時々、語られますよね。

それについて河合隼雄先生は、こんな例を挙げてくれています。

同じイスに座るにしても、ぼ〜っとひとりで座っているのと、誰かを前にしているのとでは、全然違ってくる。それはなぜかといえば、体は同じことをしていても、使う心のエネルギーが違うから。


確かに、人と接すると、(もちろん、性格にもよりますが)何らかのエネルギーを使いそうです。そして、そんなエネルギーを使うことに疲れてしまうと、何とか節約できないかという風になってしまう。

一番手っ取り早いのは、人と会わないことです。でも、これは難しい。なので今度は、エネルギーを使うことを惜しむようになりがち。ちょうど、蛇口をしめて、水があんまり出ないようにするような感じで。

笑顔を惜しみ、おしゃべりを惜しみ、必要最低限のことだけをするように心がける。でも、これでエネルギーが節約できたのかといえば、そんなに変わらないような気がする。以前と同じように疲れ、別に元気になるわけでもない。

逆に、いつもエネルギッシュな人もいます。積極的に人と接し、いつも元気にあいさつ、すすんで人の輪の中に入っておしゃべりし、仕事もちゃんとこなす。何かにつけ元気で、まるで疲れなど知らないかのよう。



一般的なエネルギー(ガソリンや電気など)は、移動可能です。こちらで使う分を減らして、あちらで使う分を増やそう、というのができる。節約すればそれだけ余るので、それを別のところで使うことが可能です。

でも、心のエネルギーはどうだろうか?

趣味に使っていた分を減らし、その分、仕事に投入する。そんなことは、可能だろうか? 仕事が効率的に進んだり、やる気が持続したりするだろうか? 気力が充実するよりは、かえってイライラしそうな気もします。

逆は、どうだろう? 趣味にエネルギーを使ったからといって、仕事が疎かになるだろうか? 確かに、寝る間も惜しむほど のめり込むと、影響が出るかもしれない。でも、ほどほどなら、どうだろう? 趣味を持つようになって、仕事も充実してきたという話はよく聞きます。

そこまではいかなくても、趣味も仕事も、両方とうまく付き合っている人もいる。趣味でエネルギーを使っているはずなのに、仕事でも元気です。逆に、趣味などでエネルギーを使うことを惜しみながら、いつもだるそうに見える人もいる。

このようなことを考えると、心のエネルギーというのは、一般的なエネルギーと同等には扱えないことが分かります。節約したからといって、必ずしも他に回せるわけではない。

その理由として、河合隼雄先生は、人間が「もの」や「機械」ではなく「生き物」だからだと説明してくれています。



河合先生は、心のエネルギーの源を「鉱脈」と呼んだ。鉱脈が1つだけだと仮定すると、なるほど、限りあるエネルギーを有効に使うために、節約しようかという気にもなります。でも、実は鉱脈が1つだけとは限らず、新たな鉱脈を掘り当てるのもまた可能だという。

新たな鉱脈を掘り当てると、今よりエネルギーを得ることができる。それは例えば、趣味。新たな趣味と出会うことで、エネルギーを得る。心身が充実してきて、以前より元気になることも。

あるいは、人と出会ったり新たな家族ができることで、エネルギーを得ることもあるでしょう。いろんなところで、やる気が出たりする。また、よい本、映画、写真、音楽など、そんな鉱脈を掘り当てることで、エネルギーが得られることも、あるかもしれない。


心のエネルギーを節約する時、同時に、新たな鉱脈を探すことを放棄してしまっている場合がある。あるいは、今ある鉱脈だって、使わなさすぎて活性化されず、萎んできている場合も、あるかもしれない。

逆に、エネルギーを使っていても、新たな鉱脈を掘り当てることができれば、使えるエネルギーはむしろ増えるかもしれない。また、今ある鉱脈も、エネルギーを使うことで活性化し、使いやすい状態になるかもしれません。

そんなことを考えると、あまりにエネルギーを出し惜しみすると、かえって損するのかもしれないということに。確かに、エネルギーを節約しているのに、いつも疲れたような顔をしている人がいたりします。エネルギーを使っている人の方が、どこか元気があったりとか。


ということで、心のエネルギーというのは、「使う」「使わない」だけでなく、「うまく使うこと」こそ、大事なのかもしれませんね。





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posted by 南方城太郎 at 12:00 | TrackBack(0) | こころの処方箋

2013年01月31日

「(22) 自立と依存の関係/こころの処方箋」

河合隼雄 著「こころの処方箋」(新潮社)より。


<自立は依存によって裏づけられている>


自立:独り立ちすること。支配や助力を受けずに、存在すること。自分ひとりの力で、物事を行うこと。

依存:他に頼って存在したり、生活すること。



評判のよい標語とされる「自立」。

でも、河合隼雄先生は言います。

どんなにありがたい標語でも、人気と共にひとり歩きを始めると、不都合なことが生じるものだと。


自立することがあまりにも力を持ち信仰されると、極端なことが起こるのだという。

ある家庭では、一刻も早く自立させようと、幼稚園児をできるだけ自分から離すようにして育てたそうな。で、どうなったのかといえば、そのお子さんは言葉を話せなくなってしまった。

このような自立は見せかけだけであると、河合先生は言う。これは親に押されて小さい子が辛抱しているだけであって、自立しているのではないと。

その子がどうなったのかといえば、お母さんがそれを理解し、存分に甘えさせたそうな。すると、今までを取り返すように子どもは甘えに甘え、それと共に、言葉の障害も消えてしまったようです。


自立と依存は相反することなので、そこに人間は、対立構造を作りがちです。でも、その考え方は間違っていると、河合先生は言う。むしろ、「自立は十分な依存の裏打ちがあってこそ、そこから生まれでてくるものである」というのです。

一番多いのは、「子どもを甘やかすと自立しなくなる」というものかもしれません。確かに、子どもを甘やかすうちに親がそこから離れられなくなると、自立の妨げになるという。でも、それは、親の方の問題です。甘えることと甘やかすことの境界があいまいで、大人の方に分別がついていない状態。

「親が自立的であり、子どもに依存を許すと、子どもはそれを十分に味わった後は、勝手に自立してくれるのである」(P93)。

こういうのは、空腹を考えると分かりやすいのかもしれません。お腹が減ったと泣かれたら、お乳をあげるなり、ごはんを食べさせるなり、したらいい。そうしたら、泣きやみます。

ダイエットだって、そうでしょう。適度に食べた方が痩せる。あまりに過激にやると、食べたい気持ちが大きくなって、かえって失敗します。食べる量を控えたい時は、「食べない」のではなく、「適度に食べる」方がよさそう。

だいたい、ずっと食べないわけにはいきません。これと同じで、小さい子は甘えないではおれない。依存しないでは生きていけないのです。それに、ここであまりに我慢させると、あとでやり直しをすることになったりするんだし。

ツケを、あとで払うことになります。


そもそも、人間は依存しないでは生きていけない。この世に生きるということは、誰かに何かを頼っているということなのです。食べる物、着る物、住む所など、誰かに何かしらを頼っている。それは単に、お金を払っているから云々ということではありません。

なので、自立というのは依存を排除することではなく、必要な依存を受け入れると共に、それを自覚し感謝することであろうと、河合隼雄先生は言うのです。そして、依存を排除して自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまうと。


日本より自立的であるとされる欧米ですが、親子のつながりは強いという。節目節目では集まるし、電話などでの連絡も密にする。贈り物の習慣も、そうだといいます。そんな風景に接し、河合先生は思った。彼らは自立しているからこそ、よく付き合っているのだと。

確かに、付き合いのまったくない自立は、孤立なのかもしれない。なにも頼るのが悪いわけではなく、互いが寄りかかってしまうばかりの関係が危ないのです。自立した者が互いに助け合う。それこそが本当の自立であるようですね。


世の中には、対立しているものが、たくさんあります。そしてそうなると、互いがどうしても、排除しようとしてしまう。でも、案外、対立しているだけでなく、共存している面も、そこにあるのかもしれません。

確かに違う。むしろ、逆だったりする。でも、そこには、性質が逆なだけで意外によいものが、存在しているのかもしれません。





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posted by 南方城太郎 at 02:50 | TrackBack(0) | こころの処方箋