2013年07月23日

「(2) 中学時代〜戦争の影響/河合隼雄 自伝より」

河合隼雄 著「未来への記憶 ――自伝の試み――」(新潮社)より。


河合隼雄 自伝(2) 中学時代と戦争の影響


河合隼雄さんは、ちょっと変わったところがあったようです。いや、今の時代には普通なのですが、当時の空気の中では、ちょっと違う面があった。

前回も書きましたが、子どもは外で駆け回るものだとされた当時にあって、家で本を読むのが好きだったようです。

また、フランスの小説である「モンテ・クリスト伯」やイギリスの映画である「ロビン・フット」が好きだったため、戦時中、こんな素晴らしい作品をつくる国の人たちは本当に鬼のようなのかと、不思議に思っていたそうです。


中学時代得意だったのは、国語と数学。国語は家で、文法博士と言われたくらい。数学は、試験勉強をしたことがないくらい、できた。


隼雄少年の指導者訳は、おおむね兄たちが担っていたらしい。文学も音楽も、多分に影響を受けています。外に出た兄たちが、いろんなものを持って帰って、紹介してくれるのです。また、家にいる兄は、話し相手になってくれた。

家にはオルガンがあって、それを母が弾き、みんなで歌ったりもしたのだという。河合家は男兄弟ばかりだったので、近所の女の子を呼んで、歌ったりもしたとのこと。



本の中で河合隼雄さんは、「音楽の関係でいうと、ぼくの青春時代は中学校二年ぐらいで終わっているのです」と書いている(P56)。戦争の影が、迫っていたんですね。


次兄の公(ただし)は当初、陸士を目指していたとのこと。けれど、試験に落ちて、臨時医専に行くことになった。それで卒業後、軍医になるのですが、そこでやっと軍隊というものの実態を知った。

その次兄が出征することになるんですが、死んでしまうかもしれないと悲しくて、隼雄少年は陰に隠れて泣いた。そして、次兄に言われたそうです。「戦のようなばかなことはおれたちがやるから、おまえは絶対に軍人になるな」と。


中学2年生になって予科練とかも始まるのですが、隼雄少年は死ぬのが怖くて仕方なかった。国の空気はお国のために死ぬのが当たり前といった時代ですから、非常に悩みます。悩みに悩んで、新潟医大に行っていた長兄に、手紙を出した。

正直、自分は死ぬのが怖い。愛国心はあると思うけど、自分だけが怖がっているのだと思うと残念で仕方がない。死について分かったら、どんなにいいだろう。医学を学んでそれが分かるなら、自分も医学を学びたい。そんなことを書いた手紙を送ります。

すると返事が来て、こんなことが書いてあったといいます。死ぬのが怖いのは当たり前で、恥ずかしいことではないということ。国に尽くす形は、ひとつではないこと。医学をやっても、死というものは分からないこと。

人間がどうやって死ぬのかは、医学で分かる。でも、死そのものについてや自分の死については分からない。それを知ってショックを受けた、隼雄少年でした。



中学4年生の時、事件が起こりました。当時としては喜ばしくもあり、それと同時に、隼雄少年にとってはすごく困った問題です。何と、隼雄少年が、陸士の推薦に選ばれたのでした。

当時としては名誉なことだったし、父親も喜んでいる。でも、本人は絶対に行きたくない。困りに困った隼雄少年は、父親に手紙を書くことにしました。その時に役立ったのが、兄たちの言葉だといいます。

「戦のようなばかなことはおれたちがやるから、おまえは絶対に軍人になるな」「国に尽くす形は、ひとつではない(軍人になることだけが、国に尽くす道ではない)」

兄の言葉を引用して、隼雄少年は手紙を書いた。それを父親の枕元に置いておいたのですが、翌日学校から帰ると、あれ(推薦)は断ったとそれだけ言われます。

心配して心配して、悩みに悩んだ隼雄少年ですが、決心して親に手紙を書いて胸の内を打ち明け、そして両親も決断してくれたようですね。

ただ、この話には続きがあって、隼雄少年は成績がよかったにもかかわらず、姫路高校を書類選考で落とされてしまいます。これはおかしいということで、父親がわざわざ汽車に乗って説明を聞きに行ったのですが、そこで分かったのが、教練が丙だったという事実だった。

陸士の推薦を断ったため、教練の教官が、甲乙丙の丙をつけたらしい。それで本来通るはずのところを、一次選考で落とされてしまった。

このため隼雄少年は姫路工高ではなく、神戸工業専門学校(神戸高専)に入学することになります。




タグ:河合隼雄

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posted by 南方城太郎 at 14:07 | TrackBack(0) | 河合隼雄 自伝より

2013年07月03日

「(1) 篠山時代/河合隼雄 自伝より」

河合隼雄 著「未来への記憶 ――自伝の試み――」(新潮社)より。


河合隼雄 自伝(1) 篠山時代


生まれは篠山(兵庫県多紀郡笹山町)。


父は田舎の庄屋の次男坊。

家を出て京都で弁護士を目指すが、後に歯科医を目指し、資格を取る。

奈良県の松山(現在の大宇陀町)で見習いをし、その頃に小学生の先生をしていた隼雄の母と出会う。

母親も田舎の人だったけど、同時に、モダンな人だったらしい。

当時としては珍しく、母親の方が4つ年上とのこと。

婚約の後、東京歯科医専(歯科医学専門学校)で1年勉強する。そして、結婚。丹波篠山で、歯科医を開業することに。

その歯医者さんが流行って、経済的に安定した。


百姓の次男として育った父は長男とかなり区別された体験から、自分の子どもたちは絶対に区別しないと宣言していたという。


河合隼雄さんは、6人兄弟の5番目。

上から、仁(ひとし)、公(ただし)、雅雄(まさお)、迪雄(みちお)、隼雄、逸雄(いつお)。

ただ、逸雄の前には、小さい頃に亡くなった弟がいるとのこと。


幼稚園の頃など、隼雄は母親のそばから離れようとはしない子どもだったらしい。それでも幼稚園の先生が好きになって元気に通うも、先生が結婚によって退職。お別れの日には、泣いてしまったという。

男は泣くものではないというのが当時の常識でしたが、母親は「ほんとうに悲しいときは、男の子でも泣いてかまわないのよ」と慰めてくれたという。


兄弟が自然の中を駆け回る中、隼雄少年は本が好きだった。ただ、当時の価値観では家で本を読む子どもは不健康だということで、本人も気にしていたという。父親からも、ある日、土曜日以外は本を読んではいけないと言われる。

1941年(昭和16年)、地元の鳳鳴中学に入学。長兄 仁から岩波文庫の「坊ちゃん」と「シャーロック・ホームズの冒険」を送られ、夢中になって読む。以後、本を送られたり、紹介されたりした。お気に入りは、「モンテクリスト伯」。あまりに好きすぎて、「モンクリ党」などと からかわれる。文学や短歌、俳句などは好まず、物語が好きだったとのこと。



さて、お父さんの口癖に、このようなものがあったそうです。

「わしは歯医者としての本分を尽くす、子どもは遊ぶのが本分やから遊んだらいい。だから、お父さんが働いているのに自分たちは遊んでいるなんて思う必要はぜんぜんない」

そしてこの精神を、兄弟たちは受け継いだのだそう。





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posted by 南方城太郎 at 14:43 | TrackBack(0) | 河合隼雄 自伝より